第9章
〜奇跡の処方箋〜
ドイツ滞在中に、無性にポンペイを訪れたくなったことがある。思い立ったら、行動あるのみ。早速、列車を予約し、週末を指折り数えた。
火山の噴火によって、一瞬にして埋もれてしまった古代都市―
ポンペイを訪れる前の私の知識といったら、その程度だった。思考回路のどの部分がどのように刺激されて、「ポンペイに行きたい病」にかかったのかよくわからないが、思い立ってから4日後、私はガイドブックも持たずにポンペイの地に立っていた。
ポンペイはイタリア南部の都市、ナポリの南東に位置する。ナポリから電車で1時間ほど揺られただろうか、降り立った駅は意外に小さく、そして殺風景だった。本当に遺跡があるのだろうか、何かの事情で閉鎖されているのだろうか、降りる駅を間違えたのだろうか、不安がよぎる。
しばらく歩くと、「ガイドブックはいらんかね」「絵葉書はどうだい?」「遺跡ガイドをしているんだけれど、どう?」と引っ切りなしに人が近づいてきた。私の不安は見事に晴れたが、同時にガイドもガイドブックもなしに、この遺跡を歩いて回れるのだろうか、という新たな不安が湧き上がる。突発的にイタリアへ来てしまったこともあり、ポンペイに関する予備知識はゼロに近い。
場内でも「ガイドはいらんかね」はしばらく続いた。さすがに鬱陶しい。「いらんかね」と言われれば「いらん」と言ってしまう。何も言われなければ「ガイドしてもらえる?」と頼んでいるかもしれない。「いらんかね」コールがパタリととまった頃、「チャオ」と笑顔で近づいてくる小柄な男性がいた。「いらんかね」の人達とは、なんとなく雰囲気が違う。
「よかったら遺跡を案内しようか」
彼は続ける。
「のんびりお散歩ができればそれでいいの」
「イタリアに住んでいるの?」
「そういうわけではないけれど、ガイドを必要とはしていないの」
ええいっ!こうなったら、見栄をはるしかない。ガイドは喉から手が出るほど欲しいが、しつこくデートに誘ってくるガイドが多いことも経験から知っている。やっぱり、1人で歩いて回ろう。
「考古学に詳しいの?」
「まさか。知識は皆無。ここも、数日前に思い立って来ちゃったの」
「だったら、案内するよ。これから、見回りと施錠のために遺跡を一周するんだけれど、一緒にどう?1人じゃ退屈だし」
彼は、ポンペイで学芸員をしながら、遺跡に関する本を執筆している、と言う。神殿、浴場、劇場、邸宅、店などを要領よく回っていく。ヴェズヴィオ山の突然の噴火によって、灰に埋もれてしまったポンペイ。西暦79年のことだった。彼は、当時の人々がどのように浴場を利用したのか、どのように水を確保したのかを教えてくれた。円形闘技場では剣闘士が生命をかけて戦っていたこと、剣闘士の身体を張った戦いに市民は拍手喝采したこと、色彩豊かに描かれた壁画から文化的水準の高い町だったことがうかがわれること等、多くのことを話してくれた。ほどよい疲れが全身にまわった頃、私は彼と何もない、草だけが所々生えている地面に腰を下ろし、しばらく遺跡とは関係のないことを話した。会話の流れから、私がその辺りに落ちていた小枝で地面に漢字を書いて見せようとしたときだった。
「ちょっと、待って」
彼の手が私の指を遮った。そして、彼は土の塊(のようなもの)を取り上げた。
「それは何?」
話しかける私に彼は丁寧に土を払いのけ、現れた円形のものを私の手のひらに置いた。直径が1センチくらいある。
「これは当時の貨幣だよ。」
彼の話から当時の生活を思い描いていた私は、1900年以上もの時を隔てたコインを手にしたことによって、一気に歴史に引きずり込まれた。当時の町並み、人々の行き交う様子が脳裏に浮かぶ――
日本に帰ったら、ポンペイのことを調べてみよう。
「今日の記念に、持っていく?」
「いいの?」
「本当はいけないんだけれど、コインの出土は珍しくないし、内緒にしておくから」
私は、そのコインをティッシュに包み、ポケットにしまい込んだ。
「ポンペイに行きたい病」はすっかり完治しそうだ。
|